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東通村(ヒガシドオリムラ)は、1988(昭和63)年に町村制※1施行100周年記念 事業として、村内−東通村砂子又(ヒガシドオリムラスナゴマタ)−に役場を移転し ました。 それ以前の村役場は、村内の道路の未整備を主な理由として、村外の青 森県むつ市田名部町(タナブチョウ)にありました。 つまり、100年もの間、役場を村内に置けなかったのです。 平成の今でも、当該自治体の外に役場を置いている所があります。 鹿児島県鹿児島郡三島村及び十島村の役場は鹿児島市内に、沖縄県八 重山郡竹富町の役場は石垣市内にあります。 いずれも離島と呼ばれているところです。 笹森儀助は、1894(明治27)年に鹿児島県大島郡の島司となり、当時 その行政区域であった十島村※2−トカラ列島−の大きさ、地形、人口、産 物、住民の暮らし向き、昔からのしきたり等々を調査をするために、翌1895 (明治28)年に視察しました。 その視察記は、後に「拾島状況録(ジットウジョウキョウロク)」としてまとめられま した。 その「拾島状況録」の中に、藤井富伝(フジイトミデン)の名があり、その功績が 記(シル)してあります。 藤井富伝は、日本有数の活火山である御岳(オタケ)をもつ諏訪之瀬島(スワ ノセジマ)※2を開拓し、入植した人です。 諏訪之瀬島は、1813(文化10)年の御岳の大噴火まで、人口約500人 部落2、人家100戸以上、寺4、畑約9万坪もあり、トカラ列島の中でも 暮らしむきの楽な島だったと推察できます。 しかし、この大噴火により熔岩と火山灰におおわれ、1883(明治16)年 までの約70年間、無人島となります※3。 この人を拒絶した無人島を開拓し、人が暮らせるようにした中心人物が 藤井富伝なのです。 藤井富伝は、1827(文政10)年12月25日に、鹿児島県奄美大島赤木名 方外金久村(アマミオオシマアカキカタフワガネクムラ)−現:鹿児島県奄美市笠利町 赤木名(アマミシカサリチョウアカキナ)−で生を受けました。 父彦七は、長い間病気に苦しみ、富伝4歳のとき亡くなりました。 そのために借金が残りました。 田も畑も家屋敷も売り、富伝、長兄喜祖富(キソトミ)、次兄牧民(マキタミ) 母親の4人は、借金返済のために働きました。 その甲斐もあり、借金も返済し、田畑1,800坪を買うことができました。 暮らし向きが開(ア)けたところで、富伝は、家族を残し鹿児島に出ます。 鹿児島は、富伝のおじいさんの生まれ故郷でした。 富伝16歳のとき−1842(天保13)年−です。 鹿児島の親戚(シンセキ)松山宗玄(マツヤマソウゲン)という医者のもとで3年 勉強し、その宗玄が1845(弘化2)年に亡くなったので、仕方なく奄美 大島に戻(モド)り、家族と共に農業に従事しました。 母親の亡くなる5年前に、富伝は、藤井の家督(カトク)を兄に譲り、分家 します。 明治維新−1868(明治元)年−となり、明治政府は、士族の失業対策 の一環として、土地の開拓を奨励(ショウレイ)するようになります※4。 富伝49歳のとき−1876(明治9)年、薩摩藩の御用船に乗っている人か ら聞いていた無人の諏訪之瀬島に同志を募(ツノ)り入りますが、食糧が 途絶(トダ)え撤退(テッタイ)します。 それから再び入り、また撤退します。 そして、1883(明治16)年、56歳のとき、またまた入ります。 が、たえず火山灰が降ったり、台風等で風も吹き荒れたりし、以後3年間 全く作物が実りませんでした。 木や草の実を取って食べる日が続きました。 毒草で同志2人が死亡します。 そして、富伝の他3人だけとなります。 富伝は諦(アキラメマ)めませんでした。 その甲斐(カイ)あって、1895(明治28)年には、牛28頭※5、豚73頭、鶏86 羽(ワ)、猫12匹、犬2匹、そして、主にサトウキビの栽培をし砂糖を売却し 生計をたてる35戸の集落となりました。 1895(明治28)年に、島司笹森儀助50歳に会ったとき、富伝は68歳でし た。 けれども、そのとき富伝は、自分(富伝)の話を聞き、それに心を動かされ ている笹森儀助の顔を見ることはできませんでした。 富伝は、そのとき目がすでに見えず、杖(ツエ)にすがって歩く身となってい たのです。 それから9年後の1904(明治37)年2月23日、富伝は、諏訪之瀬島で、そ の生涯を閉じました。 諏訪之瀬島の集落を見下ろす場所に、その小さなお墓はポツンとあります。 2007(平成19)年6月 諏訪之瀬島人口60人 2008(平成20)年5月 諏訪之瀬島人口46人 ※6 world history−世界の歴史−は、chronology−年代学−やjournalism- 報道−などではありません。 世界の歴史は、もっと控え目で、われわれに隠されています※7。 われわれは、それを決してみることができません。 これが、この愚ブログに対する批評であり、実感です。 ※1 明治政府は、課税・兵役・司法・行政のすべてを直接に執行する体制を目 指し、1888(明治21)年4月に町村制(明治の大合併)を公布しました。 その直接支配的な中央集権国家を機能させるためには、町村の数を少な くすることが必要でした。 多ければ煩雑(ハンザツ)となり、円滑に機能しなくなります。 それ故に、世帯数300〜500を基準とし、それ以下の町村を合併することを 目的とし施行されました。 1888(明治21)年 71,314 町村 ・町村制(明治の大合併)前 1889(明治22)年 15,859 市町村 1953(昭和28)年 9,868 市町村 ・町村合併促進法施行(昭和の大合併)前 (町村は概ね住民8,000人以上を有し、町村数を約3分の1にすることが 目途) 1956(昭和31)年 3,975 市町村 ・町村合併促進法失効 2007(平成19)年 1,804 市町村 ☆市町村数の変遷と明治・昭和の大合併の特徴より 「市町村数の減少化」が「明治以降の特色」となっています。 では、明治前はどうであったのか。 「明治前の特色」は、「町村数の未統御」です。 お江戸日本橋久松町(ニホンバシトヒサマツチョウ)を見てみます。 次が、1873(明治6)年前後、つまり町村制(明治の大合併)前の日本橋 久松町(ニホンバシトヒサマツチョウ)の『東京府志科』における記述(姿)です。 [成立] 久松町 此地ハモト村松町ノ分地ナレトモ、其年代詳カナラス。 (現在、其年代は1617−元和3年と言われています。) 明治5年士地及び華族稲葉正善・小笠原長守二邸ヲ此町ヘ合併ス。 [戸口] 戸数 135戸 人口473人 [小学] 久松学校 明治6年7月創建ス、華族久松定謨ノ献金ヲ資本トシテ 新築セシカバ、其姓ヲ取ッテ校名トセリ。 この中の村松町ですが、村松源六が起こした町です。 その姓が町名となっており、この人の自宅が一番地でした。 この村松源六−子孫 村松剛−というのは徳川将軍家御典医(ゴテンイ) −医者−で力があり、この人が回りの借家(恐らく10軒前後)を束(タバ)ね て町をつくったのです。 そして、この村松町を分け、久松町ができたのです。 このように人口500人以下でも、簡単に町がつくれたのです。 言わば自主で町がつくれたのですから、町の特色が出やすかったろうし それをまた伝統にしやすかったのです。 ※2 諏訪之瀬島の行政区分は、昭和39年までは鹿児島県大島郡十島村でし た。 現在、諏訪之瀬島は、行政上は鹿児島県鹿児島郡十島村に属しています。 ※3 諏訪之瀬島の住民約500人は生き残り、他の島に避難し、移住したそうで す。 諏訪之瀬島へは、皆(ミナ)戻(モド)りませんでした。 1884(明治17)年時点で、その噴火にあった住民で生きていたのは、悪石 島に避難し移住した83歳(噴火時12歳)と73歳(噴火時2歳)のおばあさん の2人だけです。 1900(明治33)年以降、噴火の記憶は風化したと見て良いでしょう。 ※4 笹森儀助は、旧弘前藩士で政治的同志でもあり、第五十九銀行(現在の青 森銀行)の創設者でもあった大道寺繁禎とともに農牧社を設立し、岩木山 (イワキサン)の麓(フモト)で、牛馬を飼育するため常磐野(トキワノ)牧場を開拓しま した。 笹森儀助は、開拓事業の苦しさを体で知っていました。 ※5 砂糖を生成するためには、サトウキビを石臼(イシウス)で搾(シボ)る必要があ りました。 その石臼を回すのに牛が必要だったのです。 ※6 1968(昭和43)年に、既成の価値観を否定するヒッピーと呼ばれ る人たちが、諏訪之瀬島に島外より集まり住み着きました。 旧来の島民との間に摩擦が起こりました。 1972(昭和47)年、川上源一の肝いりで、ヤマハが、南西諸島のリゾー ト開発の一環として、小型機用の飛行場と観光ホテルを建てました。 このリゾート開発に旧来の島民は賛成、ヒッピーは反対しました。 ヒッピーの反対運動は、 海外にも伝わるようになり, ヤマハ製品の不買 運動が各地で展開されました。 しかし、ヤマハは、観光ホテルの開業をし、次いで1975(昭和50)年に小 型機用の飛行場を使用開始しました。 また、ヤマハは、有名ミュージシャンを起用し音楽イベントを開催しました。 それを追うファンが多数訪れ、島内が賑わいを見せました。 1983(昭和58)年、オイルショックの影響やヤマハの経営状態の悪化を 理由に、ヤマハの小型機用の飛行場や観光ホテルは運休されました。 2000(平成12)年フェリーとしまが就航【鹿児島本港南埠頭-口之島-中之島 -平島-諏訪之瀬島-悪石島-小宝島-宝島-名瀬港(奄美大島)】しました。 これにより発着港で艀(ハシケ)を使用する定期航路は日本から消滅しました (就航前は小宝島で使用されていました)。 2009(平成21)年7月22日 午前11時前ごろ、世界有数の長い時間の 皆既日食が経験できるそうです。 ※7 ボルヘスは、『歴史の謙虚さ』というエッセイの中で、次のように書いてい ます。 「かねがね思っていることであるが、歴史、真の歴史というものは もっと控え目なもので、その重要不可欠な日付も長い間知られずに 隠されいて当然なのではないだろうか。 麒麟(キリン)はその特異性ゆえ、かえって人目につかないものだ と中国の散文作家−荘子−が言っている。 われわれはの眼は見馴(ミナ)れたものしかみない。 タキトゥスはキリストの磔刑(タッケイ)をそれとは認識しなかった。 彼の書物はそのことを記録しているにもかかわらず」 |
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